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松山地方裁判所西条支部 平成8年(ワ)92号 判決 2000年2月24日

原告 A野花子

<他1名>

右両名訴訟代理人弁護士 高田義之

被告 労働福祉事業団

右代表者理事 若林之矩

右訴訟代理人弁護士 森脇正

主文

一  被告は、原告らに対し、それぞれ金二七五万円及びこれに対する平成七年一月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを四分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

四  この判決の一項は仮に執行することができる。

ただし、被告が各原告に対し各金一六五万円の担保を供するときは、右各仮執行を免れることができる。

事実

第一当事者の求める裁判

一  原告ら

1  被告は、原告らに対し、それぞれ金一一〇〇万円及びこれに対する平成七年一月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  被告

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  担保を条件とする仮執行免脱の宣言

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

① 原告A野花子は亡A野太郎(大正八年一一月三日生。以下「太郎」という。)の妻であり、原告A野春子は太郎の子である。

② 被告は、愛媛県新居浜市において愛媛労災病院(以下「被告病院」という。)を開設している。

2  診療経過

① 太郎は平成六年三月二九日、被告病院循環器科の診察を受け、以後主治医である上山医師の下で診察を受けた。主訴は、息切れ、呼吸困難、疲れやすい、というものであった。

② 上山医師は検査の結果、右症状は特発性間質性肺炎(以下「IIP」という。)によるものと診断した。そして、太郎は初診以後も通院治療を受けていたが、前記症状の改善は見られず、平成六年一一月ころから、腰痛、背部痛が出現し、同年一二月八日、息苦しさと著しい倦怠感を訴えて被告病院に入院した。検査の結果既に肺癌の末期で、肺、肩、下腹部などに転移しており、手術療法、化学療法、放射線療法のいずれも行えない状態であることが初めて判明した。

③ 担当医師は太郎に対してステロイド剤を投与してIIPの治療に当たったが、太郎はステロイド剤の副作用により消化管出血をきたして更に全身状態の悪化を招き、平成七年一月一三日午後一一時一三分IIPが急に悪化して死亡した。

3  注意義務違反

① 癌の治療としては、早期発見、早期手術がもっとも肝要であり呼吸器疾患の症状を訴える患者がある場合には、まず肺癌を念頭において、胸部X線検査、痰の検査、気管支鏡、断層撮影、気管支造影、気管支ファイバースコープ、末梢病巣細胞診の検査をするなどの診察を進めて行くことが必要な措置である。

② 肺癌は、咳、痰、胸背痛、呼吸困難などがその主要症状とされているところ、太郎は喫煙歴が長く、呼吸困難の症状を訴えていたのであるから、太郎の症状に対しては肺癌の可能性も考慮に入れた診察、検査が必要であった。

③ したがって、上山医師は、通院の初期の時点で、太郎の肺癌の可能性を考慮して、前記の諸検査を実施し、肺癌が確認できた場合は手術療法などの適切な治療をするべき義務があるのに、これを怠り、外来通院の期間中、胸部レントゲン検査、胸部CT検査以外には肺癌の可能性を確認する諸検査を実施しなかった。

また、平成六年四月五日の胸部CT画像では腫瘍の存在を疑うべき所見(結節陰影)があったから、肺癌の可能性を確認するために更に精密検査をするべき義務があったのに、同所見を重視せず、精密検査を指示しなかった。

その結果、上山医師は太郎が肺癌に罹患していることを発見することができず、初期の肺癌に対し、太郎が適切な治療を受ける機会を失わせた。

④ また、癌患者にとって、現在の医療水準に則って適切な癌治療を受ける期待ないし利益は、救命ないし延命の利益とは別に保護されるべき法益であるから、上山医師が太郎の右利益を侵害した点においても注意義務違反があるというべきである。

⑤ さらに、肺癌のような重大な疾患の患者が上山医師(平成五年五月に医師免許取得)のような経験の浅い医師の下で受診する可能性がある以上、被告病院には、同医師に対して十分なバックアップ体制をとるべき注意義務(例えば、同医師に対し困難な症例については一定の経験を有する医師に報告し、検査結果の判断及び治療方針の確認、検討することを指導、義務付けるなどの措置をとるべき注意義務)があったのに、これを怠った。

4  因果関係

① 太郎の臨床経過において、肺癌とIIPがそれぞれ相互に原因となり、結果となって症状が進展し、肺癌の進行に伴う諸症状がIIPの致命的な増悪に重要な原因を与えたことは明らかである。

したがって、仮に太郎の直接死因がIIPであったとしても、肺及び全身に転移した癌の進行に伴う諸症状もまた、太郎の死亡原因と見るべきである(前記の上山医師の注意義務違反を考慮すれば太郎の死亡と初期の癌治療の機会を失わせた上山医師の注意義務違反との間の法的因果関係を遮断することは、当事者間の公平や条理に反するというべきである。)。

② 太郎は平成六年四月ころの時点で適切な治療を受けていれば、肺癌の進行と全身への転移はなく、回復した可能性が高かったし、少なくとも延命を図ることができた(太郎の通院当初の癌の症状はⅠ期であったから、延命期間は三年以上、少なくとも一、二年の延命の可能性があったというべきである。なお、被告は、平成九年三月一七日付け準備書面において、太郎の通院当初の癌の症状はⅠ期であったことを認めていたのに、平成一一年一二月二一日の本件口頭弁論期日においてこの事実を否認したが、これは自白の撤回に当たるので、原告には異議がある。)。

③ 以上によれば、上山医師及び被告病院の注意義務違反と太郎の死亡との間に因果関係があるというべきである。

5  責任

上山医師は、被告に雇用されて被告病院において医療業務に従事していた者である。

したがって、被告は、上山医師及び自己の注意義務違反によって太郎が受けた損害について、民法七〇九条、七一五条一項に基づき損害賠償責任がある。

6  損害

太郎の受けた精神的損害は二〇〇〇万円の慰謝料をもって償うのが相当である。また、原告らは原告訴訟代理人弁護士に対して本件訴訟の提起・追行を依頼したが、原告らにつき各一〇〇万円が上山医師の不法行為と相当因果関係のある弁護士費用というべきである。

7  相続

太郎の相続人は、原告らの外、子としてA野一郎、A野二郎がいるが、相続人全員の協議の結果、太郎の本件損害賠償請求権については原告らが各二分の一ずつの割合で相続することになった。

したがって、原告らは、相続に基づき、右太郎の損害賠償請求権につき、それぞれ一一〇〇万円を取得した。

8  結論

よって、原告らは、被告に対し、民法七一五条一項及び七〇九条に基づき、それぞれ一一〇〇万円及びこれに対する不法行為の後である平成七年一月一三日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払うよう求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1項は、認める。

2  同2項①は、認める。

同2項②は、「前記症状の改善は見られず」との点、「検査の結果、既に肺癌の末期で……」以下の主張はいずれも否認し、その余は認める。

同2項③は、認める。

3  同3項は、いずれも争う。

ただし、平成六年四月五日の胸部CT画像に結節陰影が認められこれが結果的には肺癌であったこと、上山医師は、通院期間中、胸部レントゲン検査、胸部CT検査以外には肺癌の可能性を確認する諸検査を実施しなかったことは、認める。

4  同4項は、いずれも争う。

ただし、被告が平成九年三月一七日付け準備書面において、太郎の通院当初の癌の臨床病期がⅠ期であったと主張していたことは認めるが、これは、錯誤に基づくものであり、真実に反する(太郎の臨床病期が何期であるかは不明である。)から、これが自白に当たるとすれば、撤回する。

5  同5項は、上山医師が被告病院に雇用されて医療業務に従事していたことは認めるが、その余は争う。

6  同6項は、原告らが原告訴訟代理人弁護士に本件訴訟の提起・追行を依頼したことは認めるが、その余は争う。

7  同7項は、原告らの相続の事実と相続割合は認めるが、その余は争う。

三  被告の反論

1  注意義務違反について

① 太郎に対する臨床経過は別紙のとおりである。

太郎の初診時における訴えは、労作時の呼吸困難と倦怠感であった。上山医師は、心・肺疾患を疑って検査を行った結果、IIP及び連発性の非持続性心室性頻脈(連発型の心室性期外収縮は致死的な心室頻脈や心室細動へ移行する場合もあり、太郎の症状は治療の必要性があった。)を認め、また、血液検査で胆道系異常が認められた(この疾患は、平成六年一二月一二日の血液検査所見から原発性胆汁性肝硬変の診断がなされている。)。

また、初診当時撮影した胸部CT検査で一×一・五センチメートルの結節が認められ、これが結果として肺腫瘍であったものであるが、当時としては、これは炎症後の結節の可能性が強いと考えられ、この結節陰影が患者の訴えに影響していたとは考えられない。

② 上山医師は、通院当時、悪性疾患の疑いを持って、太郎に対し、種々の検査の必要性を説明し、入院さえも勧めたが、太郎は当時独り者で健康保険にも加入していないと述べ、再三診療費が高いと苦情を言って保険に加入することを拒み、入院に対しても頑固に拒んだ(平成六年一二月八日に太郎が入院した際初めて、太郎の実娘が太郎に内緒で国民健康保険料を払い込み、太郎もこれに加入していることが判明した。太郎はこの事実を知らされていなかった。)。

このような状況において、胸部レントゲンやCT検査をたびたび撮影して比較読影することは不可能であった。このような制限がなければ、IIPという診断をした限り、その病質からいって胸部レントゲンやCT検査でこの疾患をフォローアップするのは当然であり、その間に前記結節陰影が増大していることを発見できるチャンスも結果的には大いにあったと考えられる。当時の太郎の言動が、より早く発見できるチャンスを阻害したといえる。

また、初診時の胸部CT検査で癌という確定診断は著しく困難であった(太郎が前記三病変を有していて、これらによる全身倦怠感が当初からあったこと及び肺癌を示唆する咳症状、血痰が見られなかったことも、肺癌の診断を事実上困難にさせる事情であった。)。したがって、最低限の診療費で最大限の治療効果を上げようと考え、心室性期外収縮の治療を選択した上山医師に注意義務違反の事実はない。

2  因果関係について

① 太郎は呼吸不全により死亡したが、呼吸不全の原因は、IIPの急性増悪であり、肺癌に起因した呼吸不全ではなかった。

② 初診時付近において肺癌の治療方針を決定するには、まず組織学的診断が必須であるが、これを行うとすれば、気管支鏡検査、胸腔鏡下肺生検、胸開肺生検のいずれかが必要であった。しかし太郎は前記の重篤な三疾患を有しており、気管支鏡検査を行うことは危険性を伴い、また、全身麻酔下で行う肺生検は更に危険度が増す。さらに、右各治療はいずれも高価な診療行為であるから、前記の太郎の生活状況と言動からして、太郎からこれらを遂行することの同意は得られようもなかった。

③ 仮に初診時付近において肺癌の組織学的診断(臨床病期がⅠ期又はⅣ期)が得られたとしても、考えられるいずれの治療法(手術療法、化学療法、放射線療法)も、高齢で前記三疾患を有する太郎にとってむしろ生命予後を悪化させる危険性が高かったと思われる。

④ 以上によれば、初診時付近において肺癌の診断ができていたとしても、太郎の予後が改善された可能性は低いと思われ、延命の可能性は低いというべきであるから、原告主張の注意義務違反と太郎の死亡との間に因果関係はない。

理由

一  争いのない事実

請求の原因1項、同2項①、同2項②のうち、上山医師は検査の結果右症状はIIPによるものと診断したこと及び太郎は初診以後も通院治療を受けていたが、平成六年一一月ころから、腰痛、背部痛が出現し、同年一二月八日息苦しさと著しい倦怠感を訴えて被告病院に入院したこと同2項③、同3項のうち、平成六年四月五日の胸部CT画像に結節陰影が認められこれが結果的には肺癌であったこと及び上山医師は、通院期間中、胸部レントゲン検査、胸部CT検査以外には肺癌の可能性を確認する諸検査を実施しなかったこと、同4項のうち、被告が平成九年三月一七日付け準備書面において、太郎の通院当初の癌の臨床病期がⅠ期であったと主張していたこと、同5項のうち、上山医師が被告病院に雇用されて医療業務に従事していたこと、同6項のうち、原告らが原告訴訟代理人弁護士に本件訴訟の提起・追行を依頼したこと、同7項のうち、原告らの相続の事実と相続割合、以上の事実は、当事者間に争いがない。

二  注意義務違反(請求の原因3項)について判断する。

1  右争いのない事実、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

①  太郎(大正八年一一月三日生)は平成六年三月二九日、被告病院循環器科の診察を受け、以後主治医である上山医師の下で診察を受けた。主訴は、労作時の息切れ、呼吸困難、疲れやすい、というものであった。

上山医師(平成五年三月山口大学医学部を卒業。同年五月同医学部第二内科入局。同年一二月被告病院循環器科就職)は、右主訴から肺又は心疾患を考え、心肺の機能検査(動脈血ガス分析、心電図胸部レントゲン、肺機能検査)と血液検査を施行した結果、動脈血ガス分析では低酸素血症が、心電図で二段脈と不完全右脚ブロックが、胸部レントゲンで両肺野の微細な網状陰影がそれぞれ認められ肺機能検査では拘束性換気障害の所見が見られた。さらに、貧血・白血球増加は見られなかったが、肝機能検査では肝・胆道系の酸素の上昇が見られ、肝・胆道系の疾患が示唆されたので、上山医師は胸部CT検査、ホルター心電図及び肝・胆道系の疾患に関する検査を施行することにした。

②  同年四月五日に行った胸部CT検査の結果、肺は、肺野全体、特に末梢及び肺低部に強い繊維性変化があって、峰巣状の陰影を呈しており、続発性の肺気腫と胞があった。肺野に一×一・五センチメートルの結節陰影が認められたが、炎症後の瘢痕と読影した。また、右肺の胸膜肥厚があった。

以上の所見から、IIPが最も疑わしかったため、間質性肺炎の原疾患の鑑別診断のため、膠原病、サルコイドーシス等の諸検査を行ったが、異常を認めなかった。

上山医師は、前記の胸部CT検査及び臨床検査並びに当時の太郎の状態(発熱なし。著名な低酸素血症なし。)から、太郎は慢性型のIIPに罹患していると診断した。

③  同月六日に行ったホルター心電図の検査の結果、連発型の非持続性心室性頻脈を認めた。連発型の心室性期外収縮は致死的な心室頻脈や心室細動へ移行する場合もあり、太郎の症状は治療の必要性があったため、同日から抗不整脈剤の投与を開始した。

腹部CT検査、腫瘍マーカーを検査した結果、悪性腫瘍はなかった(この疾患は、平成六年一二月一二日の血液検査所見から原発性胆汁性肝硬変の診断がなされている。)。

④  以上の臨床検査の結果等により、上山医師は、太郎の症状は、慢性型のIIP、連発型の非持続性心室性頻脈、肝・胆道系の異常によるものと診断した。上山医師は、太郎が肺癌に罹患しているのではないかという疑いは持たなかったので、太郎の通院期間中、初診時の胸部レントゲン検査、四月五日の胸部CT検査以外には肺癌の可能性を確認するための精密検査も追跡検査も実施せず、右三疾患に対する治療としては、不整脈の治療のみを行った。

⑤  しかし、当時の一般的な診療においては、結節陰影を呈する肺病変には炎症性のものの外、良悪性腫瘍、血管性病変、先天性病変など多数あるので、時期を逃すと致命的になりうるものをまず念頭におき、喫煙歴、生活環境等を基礎に、必要な場合には追加の検査を行って確定診断をする必要があった。特に、太郎は喫煙歴が一日三〇本、約五〇年というヘビースモーカーであり、しかも肺繊維症を有していたので、肺癌が高いリスクで考えられた。ただ、胸部CT検査所見から肺癌を強く疑うのは無理であったので、鑑別すべき疾患として肺癌を念頭におき、手遅れにならないように慎重に診療を進める必要があった。太郎の場合、心肺肝機能に問題があるといっても一人暮らしで通院が可能な程の活動性を有していたから、初診ころに精密検査を行うとすれば、CTガイド下針生検又は吸引細胞診が適切であった。もっとも、当時、被告病院においては右検査を行うことは困難であったことが窺われるが、そうであれば、右検査を行うことができる松山市所在の四国ガンセンターにこれを依頼することができた。また、仮に直ちに精密検査を行えないと判断された場合には、数か月以内に胸部レントゲン又は胸部CT検査により、疾患の活動性を追跡すると同時に精密検査の妨げとなる理由を解決し病変の増大(活動性あり。)を確認した後に初めて精密検査をする必要があった。

⑥  太郎の不整脈は、抗不整脈剤の投与により最初のころは症状が改善に向かい、太郎は体が楽になったと述べていたが、肺と不整脈の諸検査を施行した後の初診後約一か月ころ上山医師に対して、「これだけいろいろ検査したけれども、体が楽にならない。一体検査等にお金がいくらかかっているのだ」と強い調子で不満を述べた。上山医師は、そのとき初めて太郎が健康保険を使わずに自費で医療費を払っていることを知ったので、太郎に対して「健康保険に加入していないはずはないから、市役所に行って加入の事実を確かめるよう」勧めるとともに、被告病院の事務担当者に対しても「加入していないのであれば、加入の仕方を教えてあげるよう」に伝えたが、太郎は健康保険に加入しようとしなかった(後記のとおり、太郎は実際には平成五年五月から国民健康保険に加入していたが、太郎も被告病院側もこの事実を知らなかった。)。

⑦  平成六年九月、太郎が上山医師に対して、「松山に戦友会があったので行ったところ、友人が癌で亡くなった」旨述べたので、上山医師はよい機会だと思って、太郎に対し、速やかに健康保険に加入してほしいという意味を込めて、「A野さんも悪いものがあるかもしれないから入院した方がよい」と入院を勧めたが、太郎は明確な返事をしなかった(上山医師は、そのとき肺癌の疑いを持っていたわけではなかった。)。上山医師は、太郎が健康保険を使用せずに高額な医療費に強い不満を述べていたことから、高額な検査をすることに躊躇を感じていたが、太郎は、上山医師の具体的な検査の勧めに対して拒否したことはなかった。

⑧  太郎は、平成六年一一月ころから背部痛、腰痛、全身倦怠感などを感じるようになり、同年一二月八日、被告病院を訪れ、息苦しさと著しい全身倦怠感を訴えて入院を希望したので、被告病院は入院の措置をとった(被告病院においては、平成六年一二月八日に太郎が入院した際初めて、原告A野春子が太郎に内緒で国民健廉保険料を払い込み、太郎もこれに加入していることが判明した。太郎は住友化学を定年退職した後、国民健康保険に加入していたが、一時期保険料を支払わなかったため、その資格を喪失していた。同原告は、その事情を知り、太郎に代わって加入手続を取り、保険料の滞納分は原告A野花子が支払ったので、太郎は平成五年五月以降その資格を回復したが、太郎はこの事実を知らされていなかった。)。

入院当日の胸部レントゲン検査及び胸部CT検査により、右肺に四×三センチメートルの腫瘤陰影(前記②の一×一・五センチメートルの結節陰影の増大したもの)が認められた(ただし、平成六年一二月九日、一二日に行われた喀痰細胞診では陰性であった。)。

そして、入院当日の心電図、翌九日の血液検査(腫瘍マーカー、肝機能検査)、同月一二日のガリウムシンチグラム及び同月二七日の骨盤のレントゲン写真によれば、太郎はIIPに肺癌(血清NSEが三〇四Dng/mlの高値(正常値は一〇以下)を呈していることから、肺小細胞癌と見られる。)を合併し、その外に原発性胆汁性肝硬変、心室性期外収縮が存在する状態であり、肺癌は遅くとも同月二七日には骨移転を伴っていた(肺小細胞癌のⅣ期)。

⑨  担当医師は、同月二〇日からIIPの急性増悪に対してステロイド剤を投与してIIPの治療に当たったが、太郎はステロイド剤の副作用により消化管出血をきたして更に全身悪化を招き、平成七年一月一三日午後一一時一三分IIPが悪化して死亡した(当時七五歳)。

以上の事実が認められる。

2  右認定事実によれば、平成六年四月五日に行った胸部CT検査の結果、太郎の肺野に一×一・五センチメートルの結節陰影が認められ、かつ、太郎は喫煙歴が一日三〇本、約五〇年というヘビースモーカーであり、しかも肺繊維症を有していたので、肺癌が高いリスクで考えられたから、鑑別すべき疾患として肺癌を念頭におき、手遅れにならないように慎重に診療を進める必要があったのに、上山医師は、右結節陰影を炎症後の瘢痕と考えて肺癌に関する精密検査を実施しなかったため、太郎の肺癌は同年一二月まで発見されなかったことが認められるから、上山医師には注意義務違反があるというべきである(被告は、上山医師が、通院当時、太郎に対し、悪性疾患の疑いを持って種々の検査の必要性を説明し入院さえも勧めたが、太郎は当時一人者で健康保険にも加入していないと述べ、再三診療費が高いと苦情を言って保険に加入することを拒み、入院に対しても頑固に拒んだ旨主張する。確かに平成六年九月上山医師が太郎に対して「A野さんも悪いものがあるかもしれないから入院した方がよい」と入院を勧めたのに対し、太郎は明確な返事をしなかった。しかし、上山医師はそのとき肺癌の疑いを持っていたわけではなく、太郎は上山医師の具体的な検査の勧めに対して拒否したことはなかったというのであり、前記の太郎の不満は高額な医療費の割りには治療効果がないことに対する不信感の表れとも見ることができ、上山医師が肺癌の疑いをもって具体的説明とともに検査や入院を勧めれば(生命に係わることなので)、太郎はこれを拒むことをしなかったと考えられるから、被告の右主張は理由がないというべきである。)。

三  因果関係(請求の原因4項)について判断する。

1  前記二、1の認定事実、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

①  太郎は平成六年一一月ころから背部痛、腰痛、全身倦怠感などを感じるようになり、同年一二月八日、息苦しさと著しい倦怠感を訴えて被告病院に入院した。

入院当時の太郎の症状は、全身が衰弱し、胸部レントゲン検査及び胸部CT検査により、右肺に四×三センチメートルの腫瘤陰影が認められ、この肺癌は遅くとも同月二七日には骨移転を伴っていた(肺小細胞癌のⅣ期)。

②  IIPの病状については、入院日に撮られた胸部CT検査では平成六年四月五日の胸部CT検査で認められた網状影、線状影の増強に加え、両肺野全体に淡いすりガラス様の陰影が出現した。また、同年一二月一二日施行の肺機能検査により拘束性換気障害が進行していることが確認され、血液ガス分析においても悪化の一途をたどっていて、同月一六日から酵素吸入をするほど呼吸困難が増悪していた。そして、太郎は、同月一九日ころより、見当識障害、精神的不安定などが出現し、治療やケアに対して非協力的な言動(点滴や尿道カテーテルの自己抜去のほか、ステロイド剤の服用や酔素マスクの着用などを指示どおりに行っていない。)が見られるようになり平成七年一月五日ころからステロイド剤による胃潰瘍出血を併発し同月一三日には呼吸困難の増悪とともに胸部レントゲン写真で左肺に強い微細顆粒状陰影の増強が見られるようなり、同日午後一一時一三分死亡した(すなわち、太郎の直接の死因は呼吸不全であり、呼吸不全の原因はIIPの急性増悪である。腫瘤はセグメント六(肺下葉の背側)に限局していたので、肺小細胞癌単独で呼吸不全をきたすことはあり得ないし、これが呼吸不全を助長したことも考えられない。また、肺癌を治療しなかったからといって、IIPの進行を助長したり、IIPに対するステロイド剤治療の効果を減弱させたことは考えられない。もっとも、太郎は初診時に比べて入院時は相当な体力低下をきたしていた。仮に太郎の体力が低下するまでに肺小細胞癌やIIPに対して迅速な治療をしていれば、IIPに対するステロイド剤の治療効果やステロイド剤による胃潰瘍出血などの経過が異なっていた可能性がある。)。

③  太郎の肺小細胞癌が初診当初のころ何期であったか明らかではない(したがって、被告が平成九年三月一七日付け準備書面において太郎の初診当初の癌の症状はⅠ期であると認めていたのは、真実に反し錯誤に基づくものというべきである。)。

④  太郎の肺小細胞癌が初診当初のころ既に最悪のⅣ期であったとすると、化学療法によって治療するほかない。ところが、太郎の不整脈は治療によりむしろ改善されてきており、太郎の全身衰弱にほとんど寄与していなかったと考えられ、また、原発性胆汁性肝硬変は無症候性であり、これも太郎の全身衰弱にほとんど寄与していなかったと考えられる。そうすると、太郎の場合、IIPと肺癌の合併症の臨床報告に基づいて実際よりもどの程度長く生存することができたかを考慮してもよいと考えられる。しかして、初診ころから数か月間の経過観察後に精密検査がなされてⅣ期の確定診断がつき、肺小細胞癌の化学療法を迅速に行っていれば、太郎はIIPに対してステロイド剤が有効であったから、肺小細胞癌の治療もIIPの治療も良好に推移したと考えられ(IIPと肺癌が合併した症例についての臨床報告によると)、太郎は少なくとも実際よりも約半年長く生存することができた蓋然性が高い。

2  右認定事実によれば、太郎の直接の死因は急性増悪したIIPであり肺小細胞癌が死亡原因に直接寄与したものということはできないが、上山医師の前記認定の注意義務違反がなければ、太郎は少なくとも約半年長く生存することができた蓋然性が高いことが認められる。

そうすると、上山医師の前記認定の注意義務違反と太郎の死亡との間には因果関係があるといわねばならない。

四  損害(請求の原因6項)について判断する。

前記二、1及び三、1の各認定事実によれば、太郎は肺小細胞癌に対する適切な治療の機会を奪われ、約半年長く生存する権利を侵害されたものであり、これにより精神的苦痛を受けたと認められる。太郎の死亡当時の年齢(七五歳)、延命可能期間(約半年)、上山医師の注意義務違反の態様、上山医師は、太郎が健康保険を使わずに自費で支払っている高額な医療費に強い不満を述べていたことから、高額な検査に躊躇を感じていたこと、その他本件に現れた事情を総合考慮すると、太郎の右精神的苦痛に対する慰謝料は五〇〇万円が相当である。

また、本件と相当因果関係のある弁護士費用は五〇万円と認定するのが相当である。

そうすると、前記一の争いのない事実によれば、原告らは、太郎の右五五〇万円の損害賠償請求権を各二分の一ずつ相続したことになる。

五  まとめ

以上によれば、被告は、原告らに対し、それぞれ金二七五万円及びこれに対する不法行為の後である平成七年一月一三日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。

六  結論

よって、原告らの請求は主文一項の限度で認容し、その余を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 武田正彦)

<以下省略>

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